育休先生。

「イクメン」という言葉がなくなる日を目指して。

「日野皓正氏ビンタ騒動」についてのアジカン後藤さんのコラム。

 先日の「日野皓正氏ビンタ騒動」以来、これまで以上に『体罰』について考えています。世間の反応に危機感を覚えていましたが、数日前にアジカン*1の後藤さんが寄稿された新聞のコラムを拝読して、まともなお考えに安心しました。

 

<目次>

 

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 先日書いた記事

 ボクが自分自身の考えを書いた、先日の記事はこちら↓↓↓

ikukyusensei.hatenablog.com

 

アジカン後藤さんのコラム

 現在、朝日新聞では月〜木曜日に、日替わりでコラムが寄稿されています。

 

 参考までに、その面々をご紹介しておくと、

  月:本谷有希子さん(劇作家)

  火:堀田江理さん(在野研究者)

  水:後藤正文さん(ミュージシャン)

  木:福岡伸一さん(生物学者)

 以前は、月曜日に羽生善治さん(棋士)、火曜日に村田沙耶香さん(小説家)が寄稿されていて、どちらも非常に興味深く拝読していました。

 

 さて、本題に戻ります。今週、アジカンの後藤さんが寄稿された内容が、まさに「日野皓正氏ビンタ騒動」の『体罰』に関してのものでした。

 

◯「愛」を持っているならば

 有名なジャズ演奏家が、ステージ上でコントロールを失った教え子の頬を平手で打ったというニュースを様々なメディアで見聞きしてから、もやもやといろいろなことを考えている。

 2人の関係性など、経緯のすべてを把握しているわけではないので、外野から言葉を発するのは野暮かもしれない。

 それでも、インターネットで見かけた「愛ある暴力は暴力ではない」というような体罰容認論には、違和感を感じる。

 「愛」という言葉はとても曖昧だ。「愛」という言葉が、どのような感情を表しているのかを説明するのは、とても難しい。

 「愛」の有無はわかりにくく、照明することが困難だ。もちろん、定量化できない。それぞれの「愛」の濃淡や大小を比較することも、本来は不可能だ。

 そうして曖昧模糊とした言葉をよりどころにして暴力を肯定してしまうのは、とても恐ろしいことだ。

 言葉や音楽や芸術は暴力を克服するためにあるのではないか。

 力の強い者が弱い者から奪う弱肉強食的な社会に多様性を与えて、人間の有様を豊かにするために育んできたものが、言葉や音楽や芸術だろう。

 僕たちが確かに「愛」を持っているのだとすれば、本当に必要なのは、その「愛」とは何なのかを、暴力以外の態度とボキャブラリーで表すことだと思う。

 

名のある人だからこそ

 世の中には「正解はない。様々な考えがあっていいよね!」という問題と、「社会の在り方を考えると、これはこうあるべきだよね。」という問題の両方が存在すると思います。例えば「女性は細い方が美しいか」という問題は前者、「人を殺しても良いか」という問題は後者だとボクは考えています。

 

 そういった意味で言えば、個人的には『体罰は場合によってはアリか』という問題は間違いなく後者、もちろんその答えは「100%ナシ」です。

 後藤さんの書かれた通り、「暴力を振りかざす側が『愛があるから』と言って体罰を行うこと」を良しとすれば、おそらく世の中には『愛を免罪符にした体罰』が横行するでしょう。

 

 しかし、前回の記事の最後にも書いた通り、世間には『体罰容認論』も根強く、ボクがこんなところでブツブツ呟いたところでその影響力は海に落ちた水滴ほどです。

 そんなとき、後藤さんのように名のある人が、不特定多数が目にする新聞上で、このようにまともなお考えを述べてくださると安心します。

 

 昨日のユージさん同様、全くファンでも何でもないのですが(笑)、すごく好感が持てました。

 

《以下、脚注》