育休先生。

「イクメン」という言葉がなくなる日を目指して。

自分の学級で発生した『いじめ』に対する指導は、適切だったか。

 おそらく、ほとんどの教師が『いじめ』やそれに準ずる事案を経験しているのではないでしょうか。そんなとき、自分の指導が適切だったかと、いつも後で考え直します。 

 

<目次> 

 

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考えるキッカケとなった投稿記事

 7月2日の朝日新聞に載っていた投稿記事を読んで、自分が経験した『いじめ』事案と、そのときの指導を思い出しました。

 

◯いじめられる側に問題とは(40代男性)

 「いじめられるやつにも問題があるんだよ。何らかの理由がないといじめられない。」

 先日、街中で耳に飛び込んできた会話だ。思わず私は、「そんなことはない、だとしても、いじめを正当化する理由など一切ない。」と叫びたくなった。

 実は息子が小学校でいじめを受け、5月は親子ともども、その対応に追われた。学校の協力でいじめは止んだが、息子の心の傷は深く、またいじめを受けるのではないかとの恐れから、しばらくは登校できなかった。

 いじめをした側の言い分はあるかもしれない。しかしそれは言い訳であって、いじめを正当化する理由にはならない。息子の心の快復を見守ると共に、いじめの根絶には、このような誤解や偏見を断ち切る必要があると痛感した。

 

大人ができないことを押し付けない

 ボクが普段、子どもと接する上で気を付けていることは、「子どもだからと言って、大人ができないことを押し付けない」ということです。

 例えば、「クラスみんなで仲良くしましょう。」…これは無理です。色々な人間が集まっている以上、全員と仲良くするというのは不可能です。ボクは正直に、「誰でも嫌いな人とか、合わへん人っておるよな。大人も同じやで。」と話します。子ども達は、静かに「そう、そう。」とでも言うように頷きます。

 子どもは、大人ができていないことを見抜くのがとても上手です。「俺らには偉そうに言うくせに、自分だってできてないやん。」と感じた瞬間、大人の言うことを素直に聞かなくなります。

 だから、「クラスみんなで仲良くしましょう。」のボクなりの言い換え方としては、「みんなで協力して良いモノを作りましょう。」や「色んな人とも上手に折り合いを付けてやっていきましょう。」などになります。

 

「嫌われる理由」≠「いじめられる理由」

 「嫌われる人には、嫌われる理由がある。」と言われると、否定はできません。例えば、自己中心的だったり、人当たりが強かったり、協調性がなかったり。そういう部分を直したらもっと良くなるよ、と適切な言葉で伝えてあげる友達が一人でもいれば良いですよね。

 でも、投稿者と同じく「いじめられるやつには、いじめられる理由がある。」と言われると、それは100%違うと思います。なぜなら『いじめ』には、「好きか嫌いか」という心情の範疇を通り越して『他者への攻撃』が含まれているからです。

 もし子どもが誰かのことを嫌いだと言ったとき、ボクなら「必要以上に関わるな。」と伝えます。理想的なアドバイスは「その人の良いところを見つけてみなさい。」なのかもしれませんが、ボク自身もそれが苦手なので子どもには言えません。ただ、「間違っても『攻撃』はするな。」と釘を刺します。

 「嫌いになること」と「いじめること」の ”違い” を明確に理解させることが重要だと思います。

 

いじめた子どもに、ボクが話したこと

 実際にボクも、これまでに担任をしたクラスで『いじめ』事案を経験しました。『攻撃』をした人が特定できた事案に関しては、その全員と個人的に話す機会を設けました。

 「誰にでも好き嫌いはある。先生は君に『人を嫌いになるな。』とは言われへん。それはコントロールできへん『気持ち』の部分やからな。でも、気に入らん子がおったら自由に『攻撃』して良いんか?逆の立場を想像してみ。もし、君は普通に過ごしているだけやのにたまたま周りの子が君のことを嫌いになって、急に暴力を振るってきたり暴言を吐いたりしてきても『しゃあないな』って思えるか?」と聞くと、それに対して異論を唱える子はいませんでした。

 念のため、「先生は『攻撃』っていう言葉を使ったけど、暴力とか暴言は間違いなく『攻撃』やんな。じゃあ、無視は?」と聞くと、子ども達は賢いので、全員が「無視も『攻撃』。」と答えました。

  そして、「もし、君に『攻撃』された子が学校に行きたくなくなったとします。君がいつも友達と喋って遊んで楽しく過ごしているような素敵な ”時間” を、その子は君の『攻撃』によって奪われました。それから半年経って、その子は人生に絶望して自ら命を経ってしまいました。君の『攻撃』によって、その子は親からもらった大切な ”” まで奪われてしまいました。人の時間や命を自由に奪う、そんな権利が君にありますか?…そうなってからでは遅いからね。」と話しました。

 

でも、いじめはなくならない

 長々と書いてきましたが、ボクは「いじめをなくした成功例」を書きたいわけではありません。というより、そもそも『いじめ』はなくなりませんでした。

 正確には、表向きにはなくなりました。しかし、子どもは大人が考える以上に姑息で、計算高い一面を持っています。少なくとも、エスカレートしなかったことが不幸中の幸いだったのかもしれません。

 

 極端なことを言えば、人間が二人以上集まった時点で、そこに上下関係が生まれる余地をはらむことになります。子ども同様、大人の世界でも醜い『いじめ』は其処彼処に存在していると思います。大人ですらできないことを、子どもにするなと言っても無理があるのかもしれません。

 

 もちろん、いじめられた子が深い心の傷を負うのは事実です。『いじめ』による不登校や自殺も、決して珍しい話ではありません。一人でもそのような思いをする子を減らしていくことは教師の、いや、大人の責務だと思います。

 その一方で、人間の ”” とでも言うべきこの『絶対に無くせないもの』と対峙することへの絶望感を、時々感じてしまうのです。